人の数だけ正しさがあるのか?

善悪は人それぞれの価値観によって異なると言われたりもしますが、本当にそうなのだろうか、と疑問に思うことがあります。本当はわかっているのではないでしょうか。何が良くて、何がいけないことなのか。

“人の数だけある”のは、あくまでも善悪をベースにした上での、“自由”や“選択”なのです。

子どもはどこへ向かえばいいのか

善悪が人の数だけあるのだとしたら、子どもに善悪を教えるなんていうことは、恐ろしくてできなくなります。

なぜなら人それぞれ、良いこと悪いことが異なるのなら、教育などただの洗脳でしかないからです。

お父さんの善悪、お母さんの善悪、それぞれ違う善悪。学校の先生も、習い事の先生も、みんなそれぞれ違う善悪。みんな違う、それでいい。

そんな風に、個人の価値観でしかないものを尺度にして、厳しく叱りつけてみたり、甘やかしてみたり、子どもは何を学ぶのでしょう。

子どもは何も分かってない。と思ってしまう大人たち。

子どもにして良いことと悪いことの教育をするのはもちろん大人の責任ですが、大人が思うよりも子どもは、善悪について分かっているのではないかと感じることがあります。

むしろ大人の方が善良な心までも麻痺してしまい、こじらせていると言えるかもしれません。大人同士のいじめをして、誇らしげにしている大人も大勢います。

もちろん生まれたての赤ちゃんは良いも悪いも、そもそも自分の判断というものすら無く、本能的な機能で生きているので例外ですが、ある程度大きくなった子どもたちは、本当は何をしたらいけないのか、大人が思うよりもわかっています。

ただ、わかっているけど、超えてみたい、ダメだと言われるものほど、興味が湧いてしまう。そんな世界への好奇心や、自分の体験として学ぶために、良く無いことをするんです。また、自制心やコントロールがまだ上手く効かないので、わかっていても出来ないこともあります。例えばカッとして反射的に友達を突き飛ばしてしまうなど。でも、びっくりして泣いている子を目の前に、なんとも言えない表情を浮かべたりします。繊細な子だと、周りの人大人がざわざわし出したのを見て、自分まで泣き出したり。

心の奥ではごめんなさいって、たくさん思っていると思いますよ。言語として捉え、うまく表せないだけで。大人よりも素直に。

思春期の子どもたちもそう。

いけない事なんてわかっている。でも枠を越えたい。大人が言うからではなく、自分の肌感覚で知りたい。どこまで進んだら危険で、どこまでなら安全なのか。自分で失敗をしたいんです。無茶をして、馬鹿をして、人に散々迷惑をかけて。

純粋さを失う子ども

ただ、周りの大人が身勝手に、自分の歪んだ価値観で生きていると、子どももかなり歪みます。してはいけないことをしてしまう大人の側で、染まらないでいるのは不可能に等しい。小学生くらいであっても、軌道修正が簡単ではなくなる程に、心は荒んでしまいます。

大人が子どもにできること。間違えながらも正しくあろうと、常に学び続ける生き様を見せることではないでしょうか。仮に選択を間違えたとしても、芯はブレません。

選択の自由

善悪はあると思います。ただ、善悪だけでは機械人形のようにしか生きられないので、人には選択の自由がある。どんな選択も可能です。だからこそ、どう生きるのかをしっかりと考えなければならない。

善悪が無いのでは無い。全てが正しいわけでもない。

人は間違える。必ず間違えるから、その度に姿勢を正す努力をする。

向き直す方向は同じなんです。

暗闇を見て、心が消えそうになったら、光を向く。信じる。何度も何度も現れる暗闇に飲み込まれそうになりながら、学んで歩く。諦めずに光へ向き直って。