こちらのブログでもたびたび登場する私の祖母。
人生終盤を懸命に生きる祖母の在り方から、学ぶことがあったのでシェアします。
私って幸せじゃないという妄想
みんな多分幸せになりたくて生きてると思います。(何を幸せとするかは人それぞれでも。)
でもね、おそらく何かを手に入れれば、また次の何かを追い求めるんです人間。
足りない、足りない、もっともっと!って未来の栄光を追い求めて、なんだか苦しい今日を生きていたり。
豊かさは隠れたがり
成功への道のりを実現し、望んでいたものの多くを手に入れた人間が、豊かであるのかというと、それはわからない。
心から満ち足りて過ごしているかもしれないし、まったくそうではないかもしれない。
必死で築き上げた幸せも、崩れてしまうことだって起こり得ます。
いつどんなことをきっかけにして、変化してしまうかは予測しきれない。
抗うことのできない、運命の悪戯です。
ではもしも、そうやって手に入れた幸せを何かの瞬間に、失ってしまったとしたら、その人はもう豊かではないのか?
というと、それもまた、
そんなはずはないのです。
おばあちゃんの世界
私の祖母は冗談を言ったり、明るくて賢い人なのですが、今は認知症があり、同じ話を繰り返したり、新しい記憶が定着しません。
そして世界の状況も重なって(どこの施設も、今は閉鎖的にならざるを得ない)、だんだん症状が進んでしまい、最近は、ずっと頭の中で誰かとお話をしていて、ケラケラ笑っていたりするのです。
側から見れば、様々なことを忘れてしまい、普通の生活もままらなくて、不幸の中にいるように、見えるかもしれない。
私だって祖母を見て正直、少しだけ切ない気持ちに、なってしまうこともあります。
でもね、もしかしたら祖母の心の中は、実はすごく豊かなんじゃないかってたまに思うんですよね。
これだって憶測にすぎないけど…。
話したいことを制限なく話して、笑って、嫌なことも頭の中に留めておくこともせず、本当に純粋に赤ちゃんみたいに、今という瞬間を生きているだけなんですよね。
終点はキラキラ?
祖母は様々な苦難を超えて、力強く生きている人です。
私よりはるかに多くのことを経験し、学んできた人です。
でも辿り着いたのは、けして輝かしいと言えるような場所ではない。
つまり何が言いたいのかというと、
目に見えるところで、その人の真の豊かさは、決して測れないということです。
生きて、生きて、生きて。
目標に向かって努力したり、夢を追うことも素晴らしいことです。
でも忘れたくないのは、いつどんなときでも、私たちの輝きは、今この瞬間にあるということ。
今はね、世界規模で、多くの人が壁に直面している時期だと思うのです。
でも何かを追い求めて、手に入れて、失って、また求めて、生きて、生きて、生きて…
命のうごめきとでもいいましょうか、それぞれの人間がもがいて生きるそれそのものが、とても尊いものであるということです。
何をどう生きたって、最後は全員もれなく、全てを失ってひとり旅に出るわけです。
有限である人生の奇跡を存分に堪能しましょ。
不恰好で、不完全で、いいんです。
何があっても、今がどんな状態であろうとも、どんな選択をしたとしても、未来がどうなるのか、わからなかったとしても、
今という瞬間を存分に生きましょうっ!