同じであり続けたいと願っても

日々変化していく価値観。長い間、何かひとつを変わらずに信じ続けることができる人は、なぜその世界観の中に留まっていられるのだろう。私は変化してしまう。

何かひとつの立場を選択すると、必ず、それとは対になる価値観が知りたくなる。大抵のものには対となる世界は必ずあるわけで。Aを信じる人がいれば、信じない人がいて、Bを素晴らしいと讃える人がいれば、けなす人がいます。

どの立場にも、それなりの言い分があり。

価値観は必ずしも正反対へと変化するだけでなく、同じ領域の中で成熟していくこともあります。ただ、その場合であっても、もうすでに過去抱いた思想とは異なるものになっている。

真実であると信じたものを、力強く主張できるほどに何かを愛せるのは、どうしてなんだろう。

私はいつもどこかで、自分の言葉が不完全なもののように思えてしまう。

距離の近い人たちに、自分の思いを強く主張したことは過去にもあったけれど、その度に思うのは、自分の主張なんて大抵が一過性のようなものだということ。1年、2年も経てばガラリと変わる。そんな風に変化してしまうものを相手に押しつけて、傷つけて、私は何をしているんだろう?意味がわからなくなるのです。

その時々で、それなりの主張は持っていたとしても、また変化が起こるのだろうと予測を立ててしまえば、他人を論破するだけの確信は湧いてきません。

なので言葉につまる。私が私の思想に確信を持てない。でも永遠にそんなもの持てない気がしてきます。

ただ、そうした自問自答の繰り返しを、私は案外好んでやっているのかもしれません。道理を学びたいという欲なのか。

こんなことを入浴中にお風呂場の壁を眺めながら考える私。目が回りそう。