ブログカテゴリー、「長いつぶやき」は私のぼやきを綴ります。主に心理や精神、人の内面について。他カテゴリーより私の思想が色濃く出てしまうかも。
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人生が進むにつれて上の立場に立つ機会は増えると思いますが、そんなときでも出来る限りフラットな振る舞いができる大人でありたいなと、いつも思っています。
いつからが大人、という境目って明確にあるわけではありませんが、社会に出るとか、子供を育てるとか、後輩を育てるとか、何かしら責任のある立場についたときかな、と思います。
私の場合、大人としての立場を考える時期に差しかかるまでに「 こうゆう大人になりたい」と思える人たちに出会えたことはとても有難いことだなと感じます。
とくに、大人なんだからこうしなさい!と言われたわけではなく、(〜しなさいと教えられたことはもっとやりたくなくなる私。)彼らの立ち振る舞いを見ていて、ただ勝手に素敵だなと憧れた感じです。
ついね、立場上で力を持つようになると自由が利くだけに、自分の後ろに付く人たちを知らずのうちにを都合良くコントロールしてしまったりする場合ってあると思うんです。
でも私が憧れた彼らはそうゆうことをしなかったんですよね。
良きリーダーとなる人も、ある意味では下についている人たちをコントロールしていることになるとは思うんだけど、でもね、この場合は個人の才能を見極めて引き上げるなど、けして自分都合にはならないんだよね。
逆に一方的なコントロール下にある支配的な関係は一度築かれてしまうと、なかなか解けなくなる。問題になりやすいのが子どもたちが標的になってしまうケースです。
大人の自分都合によって、本当は自分を責めなくていい子どもたちが、自分を疑いはじめて追い詰められていったりします。本当は大人が向き合うべきだった弱さまで抱えようとしたり。
大人が完全なる悪者として子どもの目に映っている場合はまだ良いのですが、
苦しみは押し付けるけど、それによって苦しむ子どもを表面上では救おうとする場合があるので、そうなると愛されているという錯覚が生まれ依存的な関係が出来上がってしまいます。
残酷なのは、立場上力を持てない子どもたちは、そんな大人に従う以外の選択権がないということです。
権力を良い方向に使える大人って、周りをよく見てくれているなーと思うんです。押しつけがましくなく、さりげないサポートをしてくれる。自分で自分を承認できているからこそ、外側を見渡せる余裕があるのかも。本当の意味で、上の立場に存在できている人は下の者を引き上げてくれます。
当時の私は10代で、そういった優しさを向けてくる人に対して実はそこまで有り難みを感じているわけではありませんでした。でも大人になってから、何度も思い返したし、実際その思い出に支えられた。
彼らはさりげないくて、”してやった”という感じを出さないから、当時苦しみの渦にいた私は何気なく思ってしまっていた。私自身がようやく落ち着いた頃になって、思い返して、ああ、あの時手を差し伸べてくれたんだな、ってようやく気付くんです。
自分の中にわきあがる黒い感情を、身近な人になすりつけそうになるとき、彼らならどうしただろうと想像します。
でも、あーあ。難しいですね。
まだまだ彼らの様には鍛え上げられていない私の精神。
いや。彼らももしかしたら、平然としていたように見えて、内では色んな葛藤を抱えていたのかもしれないです。相手である私が弱かったから、見せられなかっただけで。
でも、葛藤を自分でやりくりして、他人にさりげない手を差出せるってやっぱりカッコイイなー。
子どもとの関係を例にあげましたが、上下の支配関係はあらゆる場面に当てはまります。親子、先生と生徒、先輩後輩、上司部下、お店とお客、仮に友達同士という本来フェアな関係性の中にも上下関係ができている場合もあるかも。
もっとみんながフラットな繋がりの中で生きれる世界になったら素敵だなー。
支配構造からの脱出は、”支配する・された”という2極の揺れ動きの中で悩むのではなく、そこから一歩外に出てしまうことが鍵となるようですよ。(ただし子供の場合は大人の介助が先決です)